もうそろそろ引越しの準備を始めようと、近くのスーパーでダンボールをもらってきて本などちょっと片付けていたところ、おそらく大学一年の頃に書いたと思われる印刷した文章がいくつか出てきました。中にはペンネームの作品も(笑)。まあ、実はおいら昔は作家を目指していた時期があって(本はまったく読まないけど(笑))、よく文章?というか詩?はかきまくっていたですねぇ。最近はとんと書いてませんが。へぇ~と思って読んでみてると、そんときこんなこと考えてたのかぁとその当時の自分と対話していました。文章おかしいと思うけど、そのままその文章を載せてみようと思います。
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無題
私今こうして生きています。それは紛れもない事実であります。
しかし、果たして私は生きているのでありましょうか。そのことは疑問符が私の脳裏を掠めるのであります。
私は果たして現実の中を生きているのでありましょうか。果たして現実とは各も苦しいものであるのでしょうか。
私はほとほと精神というものが繊細でなりません。そのことが日々の生活において私の胃に風穴をあけるほどの苦痛を与えるのです。まったくもって情けのない話であります。私は終ぞ現実に生きたことがないような気がして仕方ありません。
確かに私は自分の内面と葛藤し続けたわけではありません。自分探しといったものに奔走し続けたわけでもありません。現実と向き合っていたときもありました。苦痛の入り込む余地のない楽しいときもありました。そのことは紛れもない事実であります。
しかし、そのことは既に過去の出来事であります。私というものは常に「今」という自分の目で見ているこの瞬間にしか生きていないのであります。過去には生きられないのです。
「今」、この瞬間の私はひょろひょろにやつれ切っています。生気といったものは何も望めやしません。自分の描いた理想郷に私の心は飛んでいってしまっているのです。その理想郷もまったく陳腐で反吐が出てくるのです。
まったく私は人生に燃え尽きてしまった。齢二十歳にして人生に諦めを感じた。何に私は燃え尽きた?何を私は諦めた?冷たいナイフで私の胃はぐちゃぐちゃにかき乱され、私は死にそうになるのです。そう、私は何に対しても燃え尽きてはいないのです。私にとって「諦め」という言葉は存在し得ないのです。なぜって何もしていないのですから。
その事実にさらされたとき、私のナルシスティックな感情は自己防衛すべく理想郷へと連れ去っていくのです。その中で私は現実では味わえない幸福を得るのです。それが虚実であることを知りながら。あたかもそれが現実かの如く。
私とてそんな理想郷にばかり甘んじてばかりいるわけではありません。私が過去に感じていた楽しい現実に戻りたいのです。そんな馬鹿馬鹿しい理想にばかり浸っていたいという人はそうはいないと思うのです。今における情けない私であっても、非力ながら現実へと舞い戻ろうと努力してもみました。それが努力であるのか、私は情けなく感じてしまうのです。
しかし、それは現実に生気を帯びた生活を送りたいということに対し必死なのは、紛れもない事実であることだけは知って頂きたい。
しかし、そうした思いとは裏腹に私にはこれでもかというほどに苦痛を与えていくのである。現実に、今この瞬間に自分というものを固定させるために奔走している自分に容赦ない鞭があびせられていくのである。理想と現実のギャップにほとほと疲れ果てていくのである。
常に私は理想主義者なのであった。
いや、私はメルヘンの世界に陥ってしまっているのかもしれない。
非力な行動にすら自分は打ちひしがれ、そして自分はトラジティックな役回りだと言い聞かせ自己防衛していくのである。
私は人のことを考えている風に思わせて内面はエゴイスティックに満ち溢れたおぞましい人間なのだ。その事実を思い知らされたときまた、ナルシストの自分を一層苦しめていくのである。
そう、誰しも一回くらいは思うことではないか。自分はこんなものではないのだ、と。私は日々を漫然と消化していきながらもそう思うのである。鏡を見つめ、鏡に映った自分の姿が哀れでならなくなるときがある。この顔、目、鼻、耳、口、髭、肩、腕、指...どれをとってもこいつらのせいではないのだ。この私という自分を覆いつくしている肉体にはなんら罪などないのだ。私という精神から常に代替となり楯となり被害を被ってくれているのだ。
苦しみに陥っている私の精神はそのまま私の肉体へと繋がっていき、鏡に映し出された私の姿は何の罪のない私という肉体をぐちゃぐちゃに歪めていた。
私は悶え苦しんだ。何も悪くはない。今生きている世界も生活も。現実が悪というのなら私は何ゆえにこの現実に生きているのか。苦しみを与えるものだけであるというならば何ゆえに私は生きているのか。そしてあなたがたは生きているのか。そのような苦しみはすべて自分自身で作り上げた虚構なのではないか。その虚構の中で自分の弱さを包み隠し理想郷へと心は移り、何もせずにその中で安穏と暮らしている。私は世界をエゴイスティックに解釈し、そして陳腐な理想を想像し、そのギャップに独りよがりに疲弊していっているのだ。
理想は常に現実の先を行っている。果たしてそうなのであろうか。理想は常に自分との対話だ。その先に何が起こるかなぞすべて自分が知っている。確かにそこには苦痛は決してない。疲弊などあるわけがない。そこにはユートピアが広がっている。しかし、そこには私しか存在していないのである。肉体という自分すら消してエゴの塊腐った精神の自分にしか存在しえないのである。私の周りに生きる人々だけでなく、この鏡に映し出された肉体までも私は消し去ろうとしていたのである。
私はそして気づかされたのです。すべての元凶は私自身の精神であった、と。私の非力な努力がうまくいかずに疲弊していくのも現実がナイフをちらつかせ、谷底に私を導いているのでは決してないのだ、そうした疲弊を取り除かずにメルヘンチックな理想郷へと旅立ってしまう自分自身の精神がナイフをちらつかせ谷底へと導いているのだ、ということを。
そして、その疲弊を取り除くためにそして、私は鏡を見つめながら思うのであった。自分はこんなものではない、と。
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大学一年くらいの二十歳のおいらはこんなことを考えていたのですなぁ。よく意味わからない部分ありありだけど(笑)おそらく、「精神」「肉体」とか頻繁にでるのは、一時期、高校生の頃三島由紀夫に傾倒していたときがあってその影響によるものだと思われますな。
おいらは「夢」とか「好きなこと」を持つのが昔とっても苦手で、必死でいろいろ試したり、それをやめてぼーっとしてたりしてた記憶がありますな。やりたいことをやってる人、夢に向かって頑張ってる人に対して嫉妬やその人たちをみて焦りのようなものも感じていた気がする。「やりたいこと」すらなく自分が向かう方向すらわからないことに対する不安、虚無感、焦燥、、、いろいろな感情に追い回されていた気がするねぇ。
最後の一文のようにやっぱり行動できず、頭の中でぐるぐるして悶えていたのがその時のおいらだったんだなと思う。つまるところ当時のおいらは、自分の精神が悪いとしていたみたい。そういう考え方はつらいねぇ。四六時中おいらなわけであってそれが悪だとしたらなかなかにストレス溜まると思う。自分の精神は善ではないかもしれないけど、悪ではないかもしれない。
こんな文章を書いた自分がいたことを時間とともに忘れていた気がする。うん、忘れてた。そういう自分がいて今の自分がいる。連綿と続く自分という自分にしか描けないストーリー。のびのびのんびりストーリーを綴っていきゃいいと思う。二十歳のおいらとの対話。なかなかに面白いひと時でござった。
これからまた引越しの準備しなくちゃぁー!引越しは大変じゃぁーーーー(><)